ここ数年、お正月を迎えると、きょうだいや家族を連れてお墓参りに行くことにしている。
「年末にお墓参りに行くもんじゃない」
「元旦早々お墓参りに行くもんじゃない」
という声をしばしば聞くけれど、そうは思わない。
思い立ったが吉日、先祖の前で手を合わせ、思いを馳せるのは、いつでもよいと思う。
もちろん、お寺の納骨堂にお世話になっているなどの事情があれば、配慮が必要だけれど。
同世代の親族・知人・友人が郷里を離れていくたびに、お墓参りのことを思い出す。
誰かが離れていくたびに、お仏壇にお参りする、お墓参りをする、という習慣もまた、失われていく。
実家の長男であるためか、折に触れてこうしたことが気にかかる。
今は大阪で仕事をしている大学時代の友人と、当時かなり真剣に、将来墓をどうするか、という議論をしたことがある。
彼はいま、実家のお墓をどのように扱っているのだろう。
実家の墓はちょっと辺鄙なところにある。
長く急な坂を登ったところにあり、すぐ隣に会社の保養所が立っている。
保養所の方があとからできたのでやむを得ないのだが、なんだか気の毒な気分になる。
不便だし、周りに気を遣うし、檀家になっているお寺の納骨堂に引き移ろうかと何度か考えた。
しかし、駐車場に来て、この眺めを見るたびに、ご先祖の気持ちを思うのだ。
別府湾と高崎山、時には遥かに四国を臨むかんなわならではのこの立地に、ご先祖はこだわったのではないだろうか。
いつも併せてお参りする母方の実家の墓所は、扇山の麓の大規模な霊園の一角にある。
2年前の地震のとき、この地域の揺れも大きかったようで、傷んだお墓を多数認める。
母方の実家の墓所も花生けが傷んでいた。
いまだに水漏れがひどく、花生けの用を成していない。
今度行くときには、水漏れを修繕できる準備をしていこう。